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さらつま日記

サラリーマン妻日記。日々のこと、子育てのこと、考えたことを書いてます。

世界の見え方

 

昔の写真を見つけて笑った。

 

DCの議会図書館の前の階段でかくれんぼをする娘たち(写真は次女)。

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退屈しのぎに始めたはいいけど、なんせここには隠れる場所がなかった。

 

この写真の次女は鬼役で数を数えているのではなく、自身が隠れているつもり。

自分が目をふさいで何も見えなければ相手も見えないだろうと考えていたとは思いたくないけれども、少なくともそういう設定で遊んでいた。(心の理論はピアジェによれば4歳くらいで出現するらしい。相手の立場に立ってものを考えられる能力の事だが、当時我が子たちは上が4歳、下が2歳ちょっとだったろうか。)

 

当たり前だけれど、この後、あっという間に鬼役の長女に見つかり(当然)あっけなく捕まって、役割交代。

 

その後、驚くべき事に長女までもが次女と同じ戦法を取っていた。

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そろりそろりと近づく鬼役の次女。

 

側から見ていると何が面白いんだかわからないのだけれど、本人たちは至極楽しそうに遊んでいた。

 

 この写真を眺めながら、最近読んでいる本の中に出てきた一節について考えた。

 

 

私たちは世界をどのように認識しているのか。

暇と退屈の倫理学

 

カントによれば、人間は世界をそのまま受け取っているのではなく、あらかじめ持っていた何らかの型(概念・形式)に当てはめて、それを理解しているらしい。

 

よって、私たちの世界を形作っているものは必ずしも現実そのものではなく、私たちの脳の認識の仕方が世界の見え方に影響を与えているということだ。

 

どこかの国に王女様がいて、はたから見たらお城と綺麗なドレスと庭と豪華な食べ物、何不自由ない生活は、非の打ち所のない(それでもってソーシャルメディアでその生活を披露するには)最高の生活のように見えるかもしれない。でも、もしも王女がその生活に退屈さしか感じず、日々冒険を求めて空想に思いを馳せているようならば、第三者から見たその世界と王女から見た世界は全く違う見えかたをしていることになる。たとえ現実にそこで両者が見ている世界は同じものであるとしても。

 

人間の認識と私たちの使う言葉の間にも大きな関連があるだろう。

 

集団的自衛権やら憲法改正やらの議論で出てくる「平和」や「戦争」ということばにしても、日本国内の平和か世界の平和か、ここでの「戦争」状態というのは具体的にはどういう状況のことを指すのか、等。これらの違いだけでも、議論をする上で相手と自分が共通の認識を持っていなければ話にならない。なのに、みんな好き勝手に好き勝手なことばかり言うからそれは建設的な議論には到底ならない。(私も好き勝手なこと言うの好きだけど。)お互いが持っている会話の「前提」となる「認識」が異なれば、その会話はどこまで行っても平行線をたどり、交わる部分がない。

 

そこで噴出する感情は「怒り」以外の何ものでもない。

 

結果、「この人とは話してもわからない!」「全然わかってない!」「バカ!」等々・・・

 

中学校で臨時講師をしていた時、ある生徒にこんなことを言われた。

「先生、講師って、採用試験に受からんかった落ちこぼれがなるんやろ」

 

当時の私としては「あ、そういうこと言うか」

 

と思っただけだけど、今ならきっとこう言うかな。

 

「『落ちこぼれ』の定義は?教員採用試験に合格できなくて臨時教員やってる人を「落ちこぼれ」と言うのならそういうことになるかもしれないけど、私はそうは考えないよ。」

 

くどい、と思われて終わりだろうけど、バカボンのパパの言葉を借りれば、それでいいのだ、と思う。

 

この写真の中の我が家の子供たちのように、自分の世界を守り、外の世界には目を伏せ、見たくないものは見ず、自分に見えないものは相手にも見えないだろうと思い込んでいる方が楽なのかもしれない。でも、その姿は側から見るとなんだか滑稽だ。それに、立ち上がって周りを見回すだけでも、そこにはどれだけ広い世界が広がっているんだろう。

 

「視点を変える」っていうことは、文字通り、「世界の見え方を変える」ってことなんだと思う。

 

 

私が学校の先生たちに求めるもの。

それこそ、子供たちの知らない世界や視点、先生たちが今まで会ってきた人、行った場所で感じたこと、そんなことをたくさん話してあげてほしい。

子供たちに、「今いる場所が全てじゃないよ」ってことを教えてあげてほしい。

 

例えば、英語科なら、単に英語そのものを教えるだけじゃなくて(もちろんそれも大事なんだけど)、もっと大きなもの、世界で起きてる出来事だとか、自分が経験した異文化体験だとか、普段の生活の中で考えたことだとか、なんでもいいからそういうことをたくさん話してあげてほしい。そして、子供達にも彼らの世界の見えかたについてたくさん質問をしてほしい。そこから大人が学ぶことっていうのもたくさんあると思う。

 

学校を卒業して、子供たちが覚えていることって、そういう話しなんじゃないかな。

 

そうそう、私が覚えてる数少ない先生の雑談の一つ。

 

高校の数学の若い先生だった。

 

「この間、100キロウォークというイベントに参加してきました。目的は、なし!

ただ歩くだけ!こういう意味のないことをするのもいいだろうって思ってな。」

 

その後、延々道中どれだけ大変だったか、どんな人と会話をしたかなどを先生は一人楽しそうに話してた記憶がある。

 

大っ嫌いだった数学の授業で、私が唯一覚えていることだ。